教会に通うと自由が奪われる? ー凧糸のたとえー

モルモンライフ
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ハロー! 帰宅してどっちが先に家に入るかをノラ猫と競争してます(´・ω・`)
どーも、スピカ(@Spica727_Mormon)です。

 

 

モルモンの教会にはいろいろな戒めがあります。日曜日に教会に行くというのもその一つです。で、ときどき言われれるんですね。「戒めを守らないといけないなんて不自由だね」と。

否定も肯定もしませんが、それに対する私の脳内思考を言語化してつぶやいてみたいと思います。

 

おっさん

さらって読めるボリュームです(´・ω・`)

「糸を切ると凧はどうなる?」のたとえ

戒めを守る、というテーマでよく用いられる話があります。教会の古い資料などによく出てくるたとえ話です。お父さんと子どもが凧(たこ)あげをして遊んでいるとき、空高く舞い上がった凧に子供は夢中になり、お父さんにこう言うのです。

 

ねえねえパパ、凧をもっと高くあげようよ!

そうだ、糸を切ったらもっと高く上がるよ!

 

 

そうだね、やってみようか。確かに糸を切ったら凧はもっと高く上がっていくと思うけど、でもずっと飛ぶことができるかな?

 

・・・あっ…いつか落ちちゃう…。

 

そうだね。凧は糸につながっているからこそ、自由に空を飛ぶことができるんだね。

 

この場合、凧が自分自身だとしたら、凧をあげている子どもやお父さんが神様、そして神様と自分をつないでいる凧糸は戒めとなります。戒めがあるからこその自由がある、という例えでよく使われています。

 

戒めは自由を与える

確かに「戒め」って聞くと、不自由さを醸し出しますよね。強制的とか束縛とかそんなイメージだと思います。たとえばお酒を飲まないという戒めに対して、難しく感じる人がいるのもわかります。しかしその分、飲酒運転を起こさない、過度の飲酒による健康被害を防げる、などのメリットもあります。

道路を歩いているとき、または運転しているとき、信号や道路交通法があることに対して「こんなルールがあったら不便だ!」と異を唱えることもできます。しかし法を遵守することによって、大切なものが守られることもあるのです。

神様が定めた戒めと、法律や社会のルールに共通しているもう一つのことは、どちらも守る守らないは個人の選択の自由だということです。そしてそのどちらも、守った場合あるいは守らなかった場合の報いは、良くも悪くも自分自身が受けることになるのです。

 

最後に

宗教を信じている人は頭の固い人が多そう、と思われるかもしれません。確かにそんな人もいます。そうでない人もいます。私自身は教会の中で家族や友人と楽しくやっています。まったく何もかも疑問を持っていないわけではありません。しかし自分が不完全なことを自覚しながらも、前後左右にぶれながらも、それでもなんとか前に進んでいます。

このブログは私の思うことをつらつらと語るだけなので、特に信仰を説いたり、勧誘したりするつもりはありません。綺麗事に聞こえるかもしれませんが、人それぞれに真実の種があり、自分自身で種をまき、その実を刈り取るのです。そしてその実を味わうのは自分なのです。

 

真理はあなたがたに自由を得させるであろう

(新約聖書ヨハネによる福音書 8章31節~36節)

 

おっさん

最後までお読みいただきありがとうございました。
あなたにとって今日も明日もよい日でありますように!

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